二条城 何故、天守は2つあったのか?そこに隠されていた徳川家の野望。

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二つの天守の秘密は?

1603年に徳川家康が築城した一つ目の天守、そして、1624年廃城となった伏見城の天守(移築)

なぜ、徳川の天下は260年も続いたのか?その秘密が京都・二条城に隠されていた!

二条城(にじょうじょう)
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代に造営された日本の城
正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)

近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された
城内全体が国の史跡に指定されている
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある

天守構造
複合式望楼型5重5階(1603年移築)
複合式層塔型5重5階(1624年移築)(非現存)

築城主:徳川家康
築城年:1603年(慶長8年)
主な城主:徳川氏(江戸期)
廃城年 1873年(明治6年)
廃城令により存城処分を受ける

二条城に天守が2つあった?

寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった
城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した
作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる
尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した

創建時の天守

引用:文化遺産オンライン

『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれている
この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説がある
記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる
この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された
移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である

廃城とした伏見城の天守が移築

新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築された
この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった
現在は、天守台のみが残る
天皇が昇った唯一の天守である

徳川期の木幡山伏見城については廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築され、二条城天守のほか、特に福山城(広島県福山市)には徳川幕府の西国鎮衛の目的もあり、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など多くの施設が移されている。

新説!所JAPAN【京都二条城ミステリー信長より怖い家康の本性&天守2つの謎】

2020年2月3日(月) 22時00分~22時54分
今夜は「お城ミステリー」昨今の“お城ブーム”の中でも、絶大な人気を誇る世界遺産・二条城!徳川家康が京都に城を建てた理由とは?そこには恐るべき家康の裏の顔が…!?

MC: 所ジョージ 
アシスタント: 谷元星奈(関西テレビアナウンサー) 
ゲスト: 柴田理恵  田中直樹(ココリコ)  Dream Ami  パックン(パックンマックン) 
ロケリポーター: つるの剛士  磯田道史(歴史学者)  千田嘉博(城郭考古学者)

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